■ 町名の由来 都由乃町の町名は、つゆの森の伝説から大正六年につけられました。 すでに白滝姫のお話は皆さん良くご存知のことと思います。 このつゆの森を通って山田の荘(現北区山田町)に至る道は、いつごろからか開け、どのような役割を果たしたのでしょうか。つゆの森伝説には、奈良時代の天平宝字八年(764)淳仁天皇が白滝姫と山田郡司真勝との仲をとりもったとあり、兵庫の大和田の泊まりの改修記録のある弘仁三年(812)より古く、平清盛が兵庫に経ケ島を築造する約400年も前のことになります。 当時、西国からすでに都に通じる三陽街道(西国街道)が開け、明石から有馬を経由して稲名野(伊丹)にいたる湯乃山街道も記録に出てくるので、かなり昔から、兵庫の津とこれら2つの当時の主要街道を相互につなぐ道として、つゆの森を経由する道が開けていたと思われます。 しかも、この道は、石井川をさかのぼり、難所の烏原谷を越える道や、夢野から高尾を越えて藍那に至る道、さらに白川峠をこえて播磨に至る道など、多くの脇街道の分岐点として、それぞれの時代の旅する人々に親しまれていたと思われます。 兵庫の津が港として整備され、交易盛んになるにつれて山田の荘と兵庫を結ぶ最短の道として盛んに利用されていた様でありますが、烏原谷の名号岩以外は、大水の為、当時をしのぶ跡が残っていないのが残念です。 旧石井村。古い「栗花(つゆ)の森伝説」から大正六年に町名となった。 山田(現・北区山田町)には栗花落(つゆ)の井は今も残っており、この伝説が二つの土地に昔をしのばせる物語を語ってくれる。
■ 町名の由来
都由乃町の町名は、つゆの森の伝説から大正六年につけられました。 すでに白滝姫のお話は皆さん良くご存知のことと思います。 このつゆの森を通って山田の荘(現北区山田町)に至る道は、いつごろからか開け、どのような役割を果たしたのでしょうか。つゆの森伝説には、奈良時代の天平宝字八年(764)淳仁天皇が白滝姫と山田郡司真勝との仲をとりもったとあり、兵庫の大和田の泊まりの改修記録のある弘仁三年(812)より古く、平清盛が兵庫に経ケ島を築造する約400年も前のことになります。 当時、西国からすでに都に通じる三陽街道(西国街道)が開け、明石から有馬を経由して稲名野(伊丹)にいたる湯乃山街道も記録に出てくるので、かなり昔から、兵庫の津とこれら2つの当時の主要街道を相互につなぐ道として、つゆの森を経由する道が開けていたと思われます。 しかも、この道は、石井川をさかのぼり、難所の烏原谷を越える道や、夢野から高尾を越えて藍那に至る道、さらに白川峠をこえて播磨に至る道など、多くの脇街道の分岐点として、それぞれの時代の旅する人々に親しまれていたと思われます。 兵庫の津が港として整備され、交易盛んになるにつれて山田の荘と兵庫を結ぶ最短の道として盛んに利用されていた様でありますが、烏原谷の名号岩以外は、大水の為、当時をしのぶ跡が残っていないのが残念です。
旧石井村。古い「栗花(つゆ)の森伝説」から大正六年に町名となった。 山田(現・北区山田町)には栗花落(つゆ)の井は今も残っており、この伝説が二つの土地に昔をしのばせる物語を語ってくれる。